2021.01.29 -ESSAY

プリピャチ

僕は一時停止をしている。それは周囲の環境や世の悪循環のせいではない。この選択というのは、良くも悪くも色々なモノを見せてくれた気がする。というより、見ざるを得ない思考回路になったと言うべきか。

1年半前の僕はチェルノブイリのプリピャチに立っていた。この街に人は住んでいない。誰かいるとすれば、自然繁殖した野生の動物か、政府の関係者、見物人と案内人。もう観光地になりつつあるとはいえ、ほとんどの景観は未だ30年以上前のままである。

カメラでその景観を収め続けていたが、僕は時々目の前の光景がモノクロに見えた。と同時に、どこかこの街と共に時間が止まったような、何とも言えない感情に苛まれた。絶対に写真なんかでは表現できない歴史の残風のような。

原発での事故はありえないと誰もが原発神話を信じていた。ペレストロイカも始まり、時代が徐々に変わろうとしていた。だが、その裏側では隠蔽工作まで働いた政府。そのせいで逃げ遅れたプリピャチ市民。

こんな感傷的になることは滅多にない。それでも、プリピャチはプリピャチのままだった。立ち止まったプリピャチでしかなかった。

また、プリピャチに立っていたとはいえ、ここで原発事故が起きたなんて想像もできなかった。それは自分でもよく分からない。それほど寂寥で粛然とした場所だった。もし理由があるとすれば、20世紀の美しさみたいなものを漠然と感じていたからかもしれない。

事故当時、僕はこの世に誕生していなかった。さらに言うと、ソビエトが崩壊してから何年後かに誕生することになる。だから、ソビエトに限らず20世紀のことは、リアルタイムでは殆ど何も知らない。  

つまり、プリピャチは僕にとって何もかも幻想の世界になる。例え、テレビで知ったり教科書で知ったりしても。それはどうすることもできない。だからこそ、そこにはロマンとは似つかないロマンがある。

そして、それと同時に廃墟という如何にも時代の残留物に、「何か」を気づかせてもらった。でも、その「何か」はとてもフワフワしていて掴みきれず、心にずっとつっかえたままだった。

それから少し時間が経った最近、そのつっかえが何なのか段々と分かってきた。それは立ち止まると気が付くことが多いということ。寧ろ、立ち止まってしか気が付かないことが多すぎる。

何もかも、例え無駄なことでさえ考えてしまう時間。その時間の流れは止まっているかもしれない。しかし、立ち止まってしか見えないモノ達だらけだった気がする。そういう風に思ってきた頃、あの時の理由が分かった。悲しさや儚さではなく、何よりも美しさを感じていた理由が。

それは時間が停止した瞬間から初めて物事の意味が分かるから。きっとその美しさだったのだろう。そして、単に時間が止まっているからモノクロに見えていたのではない気もした。

ここ数ヶ月、あらゆる表現活動に触れている。深入りしているものもあれば、代表的なもので止まっているものなど様々。とある歌姫が20世紀の最終日にとある曲を発売した。その最後のパートでは「理由なく始まりは訪れ、終わりはいつだって理由をもつ」と歌っている。

今改めて「廃墟」というモノに美しさを感じている。それは映えるビジュアルでも、現実を忘れられる非現実感でもない。本当は時代や経済、事故に陰謀など、様々な理由で捨てられた不気味なモノのはずなのに、どんな最新鋭のタワーや洗練されたカフェよりも美しさが際立っている。

時間があると不思議なもので、余計なことばかり考えてしまう。人々の営みが進めば進むほど、世に散らばる幾千分もの事柄が滑稽に見えたこともある。その一方で、今まで醜いと思っていたことがカッコよく見えたこともある。

恐らく、どうでもいいことを考えてどんどん偏った考えになっていくことは、ある意味不幸へと導いてしまう第一歩になり兼ねない。そういう点では、何も気が付かないということは幸せ者の証拠である。

でも、その幸せがもしかすると他人目線の目盛りだけに過ぎない場合もある。はたまた、周囲との比較でしか測れない人もいる。いずれにせよ、そんなことは他の人が決めるからどうだっていい。

今、いろいろな'モノ'を断捨離したい。というか、もう既に始めている。本当にいろいろなモノ。それは何もかも全て、誰にも邪魔できないフィルターを通して。

まだまだ停止していそうだけど、もしかすると停止していないのかもしれない。プリピャチは美しいけど、プリピャチにだけはなりたくない。こんな気持ち分かるかな。

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